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「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」という格言がありますよね。
「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」Google検索結果

最近、なんかこれに違和感あるよなーと思っていたんですが、やっとわかりました。
少なくとも、今このご時勢では「釣り方」を教えるんじゃダメだと思うんです。
いや、もっというと「釣り方」ばかりを教えてきたからダメなんだと思います。

魚を与えればその場の飢えはしのげる。しかし明日も同じ状態になる。
つり方を教えれば、その後もずっと食べていける



という話かと思います。
が、そもそももう子供は、いや日本人はもう飢えてないよねって思うわけで。
こと日本人においては、「釣り方」にこだわるというか、「手法偏重主義」「公式偏重主義」というか、そういうことをWeb業界にいても、一社会人としても、元専門学校教員としても思います。学校教育で言えばウンタラ法だのナンタラの公式だの、問題を解く術ばかりを教えている。数学や物理に限ったことではなくて、国語でも「だいたい解答はこの辺にある」とか歴史でも「○○という年に××が~、覚え方は語呂合わせで~」みたいな。いや、それらのものがダメということではないんです。ただ、それってテクニックであって、それ以上でもそれ以下でもないと思います。それだけ教えてたってダメじゃん、それを使う”心”を育まないと意味ないじゃんって思うんですよね。

つまり

「魚を与えるのではなく"釣り方"を教えよ」

ではなくて、

「魚を与えるのではなく"釣り"を教えよ」

だと思うんです。
理想的には。というか、本来のあるべき姿は。
少なくとも、食べ物という意味でも、情報という意味でも、生きるという意味でも飽和状態にあるこの国において「釣り方のみを教える」というのは、とてつもなく危険なことだと僕は思います。食べ物があるわけです。釣りをしなくても誰かが与えてくれちゃうんですよ。でもじゃあ、人間として「釣り」という行為をしなくていいのか。誰かが釣ったものを食べているだけでいいのかというと、それでは立派な大人、もしくは一人前になれない。いずれは自分が自分のために釣ったり、誰かにそれを教える役目をしなければならないのだから。

「チーズはどこへ消えた」じゃないですが、時代が変われば、川の流れも変わる。魚も変わる。そういうときには、流れに逆らわず、川にあわせ、魚に合わせ、釣り方を変える必要がありますよね。では、下記の二者がいたとして、どちらがそれに適応できるでしょうか。

 ・魚を釣る方法=釣り方を教えて貰った子供
 ・魚を釣ることの楽しさや意義を教えて貰った子供


僕は後者だと思うんです。
まずもって一番大事なのは「なぜ釣りをするのか」ということをきちんと自分で噛み砕いて把握すること。それがなければ、その熱意、哲学がなければ釣り方だってきちんと扱えないし、それをブラッシュアップすることもできない。僕も含め、誰しもが思い出せば気づくはずなんですが、何かの方法やアイディアを考えている時って、基本的にはそれが「楽しい」か「生きるため」だったはずなんです。釣りが楽しくて、魚がヒットするのが楽しくて、そして魚が美味しいから釣りをするし、だからこそ釣り方を、テクニックを、ルアーを選ぶわけじゃないですか。

釣り方だけ教えたってダメなんですよ。
車の運転だけ教えたってダメなんです。
車は、移動するためにあるんです。(ドライブという行為もありますが)
"どこに行くのか"ということが大事なんです。
そこへ行ったあと何かをすることが目的でもいいし、そこへたどり着く過程が目的になってもいいと思います。けれども、車の乗り方、アクセルの踏み方、道交法だけを教えたって何の意味も無い。逆に言えば、その場所に行きたい、行く楽しみや意義を知っている人間なら極論すれば這ってでも行くと思います。その負担部分を軽くするのが車であり、電車であるだけで。
極端な話をすれば、釣り方なんか教えなくたって、釣りの楽しさ、魚を釣って食べることの楽しさを教えれば、あとは勝手に自分で釣り方を見つけるんじゃないかと思います。

最も教えなければならないのは、どこに行くか、そこに行くとどんな楽しいことがあるのかだと思うんです。いや、だからといってそれを口頭や文字だけで伝えたってダメだと思いますよ。基本は体験を通して伝えるべきだと思いますし。ただ、いずれにせよ教えなければならない最も大事なことは、「楽しいこと」や「意義」であり「やる気が出る」という根源を伝えずして、何を伝えるんだ?と、最近は思うのです(ってオマイは何歳なんだという話ですがw)。

ここからは自戒を込めて書きますが、こと日本の教育というのは手法や公式を与えることに偏りすぎていると思います。WebデザインやWebサイト構築というのは、PhotoshopやFlashを使って創ることばかりじゃない。というより、そればかりを教えても何の意味も無い。というかそんなのもはむしろ現場でみっちり教えてくれるし、現場での経験に勝るものなど無い。しかし、それ以前に「Webサイトを創るということは何を創るということなのか」「どういうことが楽しいのか」ということを伝え、体感してもらえなければPhotoshopやFlashなどただのガラクタに過ぎないと思います。

逆に、Webサイトを創ること、一生懸命考えて何かを生み出すことに魅力を感じれば、それをもっと高い次元で行おうとすればおのずとPhotoshopやFlashを使うことになるでしょうし、自ら勝手に新しい技術や手法を学んでいくと思います。情報デザインやらユーザ戦略やら、観察だの調査だの検証だのありますが、それらとて結局「良いものを創りたい」という熱意がなければ何の意味も無いと思っています。その熱意があるからこそ意味を持つだろうし、その熱意がない人(ベテランだろうが若手だろうが学生だろうが)がプロセスを学んでも、本当の意味での使い道は絶対にわからない。料理の楽しさを知らない人に、食事をする人を観察したり、創ったものを味見して貰う、それを分析する楽しさはわからないし、そのプロセスをなぞっても美味しい料理は絶対に創れないと思います(料理は愛情!ではないですがw)。楽しいと思う体験、この仕事、行為は凄く楽しいということを伝えてこそ「教える」だと思います。当然、それを仕事にしたら辛いこともたくさんありますが、それはどのお仕事だって同じだし、初めの熱意や興味が無ければ絶対に続きませんから。

「何のためにそれを創るの?何がしたいの?。」で書きましたが、結局そこをきちんと伝え、体験して貰い、身につけないと「教えた」ことにはならないんじゃないかと思っていますし、「上下の交流を持つ。」に書いた勉強会もそのためにやったことです。

自分の生き方や興味なんて自分で見つけて当たり前って言われそうですが、少なくとも、この国の教育はそれを否定していると思います。なぜそれを行い、どうしてその公式を使い、どんな個性や魅力があるのかをきちんと考えさせてこなかった、画一的な教育で「考えること」を否定する教育を受けた人間に「自分の行き方を自分で考えろ」というのは甚だ矛盾しすぎではないかと思うのです。

だからこそ、人に何かを教えるには「釣り」を教えることが最も大事だと思います。
楽しさや意義という土台から、テクニックまで。
「釣りとはなんぞや」を教えることが、大切なんじゃないかと思います。
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2010.03.24 Wed l 教育 l コメント (13) トラックバック (0) l top
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